国旗損壊罪が抱える問題――愛国心を刑罰でつくれるのか
- F I
- 2 日前
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1国旗損壊罪の概要
2026年8月13日、「国旗の損壊等の処罰に関する法律」が施行された。本法は、人に「著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法」により、公然と国旗を損壊し、除去し、又は汚損した者を、2年以下の拘禁刑又は20万円以下の罰金に処する。法の保護対象は「国旗を大切に思う国民感情」と説明されている。
国旗を傷つける行為に強い不快感を抱く人がいることは、十分理解できる。しかし、「多くの人が不快に感じること」と「国家が刑罰を科すべきこと」は同じではない。刑罰法規があるということは、捜査、逮捕、勾留、起訴、拘禁といった国民にとって重大な不利益を伴う、国家権力の最も強い作用が働くということである。したがって、刑罰法規には、処罰の必要性、規定の明確性、刑罰との均衡が特に厳しく求められる。
そもそも、「国旗を大切に思う国民感情」は、刑罰によって保護すべき法益として輪郭が曖昧である。誰の、どの程度の感情を保護するのか。民主主義社会では、同じ国旗に誇りを感じる人もいれば、歴史的経験から複雑な感情を抱く人もいる。特定の者の不快感をそのまま処罰根拠にすれば、表現が感情によって封じられる「感情による拒否権」を認めることになりかねない。この辺りの議論は、木村教授の「憲法の急所」中の事例で、国歌が変わって違う国歌を許容できない人の自由をどう考えるかという説例が参考になる。国歌が君が代でなくなったとしても、この法が生き続けていた時、逆の立場に立ちうるという想像を、今、賛成の立場や立場が明確でない人たちにも、ぜひ考えていただきたい。
2 思想良心の自由・表現の自由の観点からの問題点
第一の問題は、国旗への敬意を刑罰によって確保し、実質的に愛国心を醸成しようとする発想そのものにある。愛国心は、本来、歴史や社会に対する理解と個人の自発的な評価から生まれる内心の問題である。国家が「国旗を大切に思う感情」を望ましい感情として設定し、それに反する意思を象徴的な行為で表した者に刑罰を科すなら、憲法19条が保障する思想・良心の自由と強い緊張関係を生む。国を愛する自由があるのと同じように、国に批判的である自由、国旗に特別な敬意を抱かない自由も保障されなければならない。
また、国旗を焼く、切る、塗りつぶすといった行為は、単なる物の破壊にとどまらず、戦争、植民地支配、政府の政策などに対する政治的・芸術的メッセージとなる場合がある。表現は言葉だけで行われるものではない。行為それ自体がメッセージとなる「象徴的表現」も、憲法21条の表現の自由の問題となる。多数者が不快に感じる表現だからこそ、国家が表現内容に立ち入って抑圧していないかを慎重に検討する必要がある。
3 刑罰法規としての不明確さ
第二の問題は、刑罰法規としての不明確さである。「著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法」という文言は、誰の感情を基準に、どの程度の行為を指すのかが明瞭ではない。法律は、行為の外形や周囲の状況などの客観的事情を総合考慮すると定めるが、不快や嫌悪の判断には、社会の価値観や政治的立場が入り込みやすい。
処罰範囲が事前に予測しにくければ、市民は適法な政治活動や芸術表現まで控えるようになる。最終的に無罪となる可能性があっても、捜査や逮捕を受ける危険だけで表現は萎縮する。憲法31条の適正手続の要請との関係でも、刑罰法規には高い明確性が求められる。
他人の国旗を壊せば器物損壊罪が問題となり、火をつける場所や方法によっては放火罪等が、施設に侵入して旗を引き下ろせば住居侵入罪や業務妨害罪等が問題となり得る。具体的な財産的侵害や公共的危険については、既存の刑罰法規による対処が可能である。
これに対し、新法は他人の物であることを要件としていない。そのため、条文上は、自分の所有する国旗を用い、他人の財産も公共の安全も害さずに行った象徴的行為まで処罰対象となり得る。具体的被害の発生していない表現行為にまで刑罰を拡張する必要性は、厳格に問われなければならない。
外国旗について刑法92条が既に処罰規定を置いているとの反論もある。しかし、同条は「国交に関する罪」に位置づけられ、外国を侮辱する目的を要するうえ、外国政府の請求がなければ起訴できない。外交関係の保護という制度的背景があり、国内の国旗を大切に思う感情の保護とは構造が異なる。単純な「内外の均衡」だけでは、新たな処罰を正当化できない。
本法には、表現の自由等を不当に侵害しないよう留意するとの条文がある。しかし、これは処罰範囲を明確に限定する構成要件や適用除外規定ではない。政治的・芸術的表現がいったん犯罪の構成要件に該当し、後から刑法35条の正当行為などとして救済されるだけでは、市民の予測可能性と萎縮効果の問題は残る。さらに問題となるのは、留意するとはどの場面を想定しているかが不明確なことである。刑事事件の捜査の端緒は、往々にして不明確な段階から捜査が始まるのに、この不当な侵害が、裁判の場、すなわち、起訴に持ち込まなければ捜査による国家権力による市民の監視を容易に正当化できてしまう問題も残る。
4 結びに
国旗、特に自国の国旗への尊重は、教育、対話、歴史認識の共有を通じて育まれるべきであり、刑罰への恐怖によって作られるべきではないことは当然である。
そもそも、国の愛し方に方法を規定すること自体が、およそ民主主義国家の発想ではない。人や物事を愛するときに、他者に方法を決められて、あまつさえ、刑罰を科されること自体が異常である。我が国を愛することも愛さないことも本来的に自由であり、他者に愛される国でありたいのであれば、国自体が不断の努力をすべきことである。その結果、愛されることも愛されないこともあって当然なのが健全な民主主義社会である。
異論や批判を許容し、他者との違いを許容し調整していくことこそ、民主主義国家への信頼を創出し、成熟した民主主義国家への道のりである。刑罰法規は、民主主義国家において、具体的な権利侵害や危険を防ぐための最終手段であり、かつて、人類が学んだように政治思想や人の思いを縛るものでは断じてない。
したがって、国民感情の保護を理由に表現を処罰する本法については、極めて限定的な解釈・運用とともに、保護法益、明確性、必要性の根本的な再検討をした上で速やかな廃止が必要である。
また、国旗国歌が、日の丸君が代と定められた際、これを強制することはないという国会答弁にもかかわらず、不起立教員の処罰という形で、強制的な踏み絵が始まった。新法が制定されてしまったこともこの問題と地続きの問題であることを今一度思い返していかなければならない。自国の国旗に対する行為を愛国心と同一視し、すり替え、国家権力が人の心を監視し罰する警察国家の復活を許せば、かつて、そうはなるまいと笑った自由のない国に我が国が成り果ててしまうであろう。



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